EVENT 「私たちの部落問題vol.2」 第2部土肥いつきさんレクチャー
第2部前半では、長年人権教育にたずさわってきた土肥いつきさんに「語ること/隠すこと/さらすこと」をテーマに、カミングアウトとアウティングについてのレクチャーをしていただきました。
生徒たちのカミングアウトに向き合ってきた日々を通して今思うこと、そして「カミングアウト」と「アウティング」の境界線とは…。
レクチャーの内容を再構成したものを、7回に分けて掲載していきます。
第6回目は「『バレバレ』の『24時間ひとりパレード』」です。
第2回目の「本名宣言は1つの到達点であると同時にそこからが本当のはじまりなのです」はこちらから
第3回目の「みんなに言ってよかったって心から思う」はこちらから
第5回目の「カミングアウトをめぐるさまざまな議論」はこちらからご覧いただけます。
●「バレバレ」の「24時間ひとりパレード」
そこにまた登場するんですよね、金田智之さん。この方「『カミングアウト』の選択性をめぐる問題」という論文を書いておられるんですけれども、非常におもしろいことを書いていまして。
【カミングアウトという行為は、たしかにもともと「クローゼットからの」カミングアウトを意味していた。したがって、ここで単純に二元論的な図式化を行ってしまえば、「カミングアウトしていない」ということは「グローゼットの中にいる」ことと同値になるだろう。だが、実際のところ、この単純な二元論的図式によって「カミングアウトをする」あるいは「カミングアウトしない」という行為を把握してしまってよいものなのだろうか。(金田智之, 2003, 「『カミングアウト』の選択制をめぐる問題について」, 『社会学論考』第24集, p.75)】
て書きはるんですよね、この方はですね。こういう素晴らしい言葉を論文で使ってはるんですね「バレバレ」という言葉ですね。
【本稿においては「カミングアウトしない」状況の具体的な事例として(つまり「カミングアウトしない」という意志を持って「しない」わけですね)「バレバレ」をとりあげたが、「バレバレ」という言葉こそ使わないまでも、振る舞いを通したセクシュアリティの表出という事柄自体は多く日常的に見受けられるのではないだろうか。そして言うまでもなく、そのような「カミングアウトしない」状況はクローゼット状況と同一な状況であるわけではない。(前掲書, p.75)】
どうもカミングアウトについての論議は煮詰まっているらしいです。
【カミングアウトという行為を深く理解するためにも、カミングアウトしない状況や、振る舞いにおける表出の水準は絶えず参照される必要がある。そして、これまでカミングアウトの行為ばかりに注目が向いていたのだとするのならば、一度「バレバレ」や振る舞いの水準へと目を配り、迂回してみる必要があるだろう。「解放」「抵抗」の語彙だけに頼り、煮詰まった議論しか展開できなくなったカミングアウトについての言説よりも、そちらの迂回路を選ぶ方がはるかに益が大きいように、少なくとも筆者には思える。(同, p.77)】
こんなふうに書いてあるんですね。
かつて、今日のパネラーの1人である川口くんと、「解放新聞を電車で読むことができるかどうか」という話をしたことがあるんですけど、川口くん、「ほんの少し引け目がある」って言うんですよね。それがちょっと好きで。「歩く水平社宣言」と自称している川口くんがほんの少し引け目があるっていうね。
でもそれも「バレバレ」なんです。解放新聞の1面のタイトルのところは隠すんだけど、上のヘッダーのところは残しとくみたいな、バレバレ。
つまりそれは何かと言ったら、「この電車の中に乗っているあなたの隣にもこんな人がいるんですよ」っていうことなんだと思います。本当に、日常レベルでバレバレで生きていくということは、実は大事なんだろうな思うんですよね。そういうふうな「カミングアウト」もあるわけですよ。
実は私、24時間ひとりパレードなんですよ。ちなみにわたし、学校ではカミングアウトしてないんです。「何のカミングアウト?」って思われるかもしれませんが、昔、わたしは「謙一郎くん」だったんです。昔男だったんですけれども、最近女になったんです。でも、学校の子どもたちに対してカミングアウトしてないんですね。でも「バレバレ」です。なので、24時間ひとりパレードやってるんです。