貧困な状態に置かれた部落の子どもたちへの学力保障のとりくみは、明治時代からおこなわれていました。特に、大正から昭和にかけて京都でおこなわれていた「崇仁教育」は大きな成果をあげました。
戦後の同和教育は、戦前のさまざまなとりくみを引き継ぎながら、さらに部落の人だけではなく、部落外の人も含めて、すべての人が部落差別から解放されるような社会をつくろうとする教育へと発展しました。そこでは、すべての子どもたちへの部落問題学習だけでなく、部落の子どもたちに社会的立場の自覚をうながすとりくみがおこなわれました。そして、部落内外の子どもたちをつなぐための「仲間づくり」「集団づくり」がおこなわれました。これがいわゆる「集団主義」と呼ばれるものです。
したがって、ここで言う「集団主義」は「集団のために個を犠牲にする」という意味ではありません。逆に、学級の中にいるひとりひとりのメンバーが置かれたしんどさを学級集団で受けとめ、そのようなしんどさを強いる社会を変革していくということを意味しています。
そこでおこなわれたのが、それぞれの子どもたちの「自己開示」であり、特に部落の子どもたちにとってのそれが「部落民宣言」でした。
ただ、時として「部落民宣言」が目的化してしまうこともあり、そのようなとりくみの結果「部落民宣言させられた」と考える子どもを産みだしてしまう側面もありました。しかしながら、「集団主義」の意味からもわかるように、本来の部落民宣言とは「させられる」ものではなく、「つながるためのカミングアウト」なのです。
2002年の法切れ後、「同和教育から人権教育へ」という流れの中で、「同和教育」「解放教育」という言葉はあまり使われなくなりました。しかしながら、同和教育の精神を受け継ぐていねいな仲間づくり・集団づくりの実践は、いまもあちこちでなされています。
(いっちゃん)
※イベント「私たちの部落問題vol.2」でも同和教育をテーマにレクチャーとトークセッションが行われています。同和教育の実践についてより詳しくお知りになりたい方は、
第2部 レクチャー「語ること/隠すこと/さらすこと」(全7回)
第2部 トークセッション 第5回目「部落問題学習の現状は?」
をぜひお読みください。