八鹿高校事件


 よく、「解放同盟は暴力集団だ!」という文脈で、「八鹿高校事件」というものが取り上げられることがあります。Googleで「八鹿高校事件」と検索して上位に表示されるWikipediaの説明を見てみると、次のように書かれています。

 

 「1974年11月22日兵庫県立八鹿高等学校で、集団下校中の教職員約60名を部落解放同盟の同盟員が学校に連れ戻して約13時間にわたり監禁、暴行し、教師48名が負傷、うち29名が重傷、1名が危篤となった事件」(※)

 

 また、赤旗新聞はこの事件について「男女の教師が水をかけられ無理やり裸にされた」「バスケットボールのゴールの支柱にぶら下がったゴムチューブで逆さ吊りをされた」などと報道しました(すべてデマです)。

 

 この事件などをきっかけに「解放同盟 = 暴力集団」というふうに言われてきましたが、実際はどんな事件だったのでしょうか。一言で言うと、「差別の被害者が抗議しているにも関わらず、差別者を共産党が擁護し、さらに被害者側に「暴力集団」というレッテルを貼った事件」といえます。

 

 事件の概要は以下のようなものでした。

 

 ・当時の八鹿高校では同和教育がまともに行われておらず、学校内でも部落差別によって交際をやめさせられた生徒がいた。

 ・また、近隣の高校の生徒の間でも部落差別により自殺する事件が起きていた。

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 ・そんな中、被差別部落出身者の生徒が中心となって八鹿高校で部落解放研究会(以下、解放研)を結成しようとする。

 ・しかし、教師は設立を認めず、生徒たちが学校と交渉するためにハンガーストライキを行う(この時は真冬で、翌日からは連休に入るタイミングだった)。

  ↓

 ・教師たちは突然一斉に休暇をとって、抗議する生徒を振り切って集団下校を行う。

 ・それを知った保護者や部落解放同盟が、「生徒を見捨てるな」と教師を学校に連れ戻して抗議するが、教師は無視を決め込む。

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 ・そんな態度に腹を立てた一部の人が教師に暴行を加えた。

 ・それを止める保護者や解放同盟員もいた。

  ↓ 

 ・この事件を理由に共産党は「解放同盟 = 暴力集団」というキャンペーンを貼るようになる。共産党は揉め事が起こることを想定し、あらかじめ赤旗新聞の記者を八鹿高校に常駐させ、病院の手配も行っていた。

 

 以下、さらに詳しく事件の顛末を見ていきます。

 

■一連の事件の発端は?

 1974年1月、兵庫県幹部職員の差別文書事件が発覚します。

 

 当時、ある高校3年生の女子生徒と兵庫県幹部職員の息子が交際していました。この職員は、同和行政を推進する立場にいたにも関わらず、女子生徒が被差別部落出身だとわかると、それを理由に自分の息子に交際をやめるように文書で述べました。

 

 文書の内容は、

 ・同和行政を口で唱えても本当にそれをやる人はいない。私が一番よく知っている。

 ・家族一同が不幸となり社会の片隅で小さくなって生活していかなければならない。

 などといったものでした。

 

 この文書が見つかった後、同じ様に部落差別によって交際を断ち切られた生野高校(八鹿の隣町)の女子生徒が、奈良県で自殺します。このような事件が連続して起こったため、兵庫県但馬地方の部落民(青年部中心)が糾弾闘争に立ち上がりました。

 

■当時の八鹿高校の同和教育はどのようなものだったか?

 当時の八鹿高校では、教師たちは同和教育にまともに取り組んでいませんでした。

 

 ・教師は部落の実体を知らず、たまに本を読み通すだけ。

 ・同和教育の授業中、漫画を読む、他の話をする、エスケープをする生徒がいる。

 ・部落出身の生徒が教師に間違いを指摘しても、教師は笑って「またか」という顔をする。

 ・部落出身の生徒が話している途中にプリントを配るなど、教師は話を聞こうとはせず、他の生徒と一緒になって笑う。

 

 このような授業だったため、部落出身の生徒は同和教育の時間はいつもビクビクし、顔すらあげられず、教師のおかしな発言に対してもなかなか指摘できませんでした。

 

 学校側も同和教育にまともに取り組んでおらず、上で述べたような差別事件もあり、部落出身者たちには「黙っていたら差別に殺される」という思いがありました。

 

■なぜ生徒たちはハンストを行ったのか?

 これらの情勢を受けて1974年5月に、八鹿高校の生徒たち21人が部落問題について学ぶためのサークル(解放研)を作ろうとします。

 

 しかし、教師たちはこのサークルの設立を認めません。また、彼らは生徒たちと約半年間話し合おうともせず、11月になり2人の教師との話し合いが約束されるも、他の教師にもみ消されます。なぜなら、当時の八鹿高校の教職員組合は共産党員の教師がリーダーだったからでした。

なかなか教師たちが話し合いの場を設けようとしないため、生徒たちは話し合いを求めて、11月18日に職員室前の廊下に座り込みを始めました。

 

 これを知った保護者や被差別部落の人たちなどが教師に抗議しますが、逆に教師たちの態度は硬化し、集団登下校をするようになります。また、彼らは11月20日からは城崎の旅館に集団宿泊するようになります。

 

 さらに、11月21日 に生徒たち21人がハンストに入りますが(3日間何も食べず、学校に泊まり込む)、11月22日、教師たち60人は登校してすぐに年休届けを提出し、各教室で「授業はない」と生徒たちに言い、職員室前の廊下に座り込んでいる生徒をまたぐようにして集団下校しました(翌日からは連休)。また、解放研以外の生徒は、この様子をおもしろそうにジロジロ見ていました。

 

 なぜ、解放研の結成は認められなかったのでしょう。それは当時、すでに「部落問題研究会(部落研)」という別のサークルが作らていたためです。 教師たちは部落研を「民主的に部落問題を考えるサークルとして指導してきた」としています。しかし、この部落研は11月22日に教師を説得する保護者に 対し、校舎の窓から「エッタ帰れ」「四つ帰れ」とシュプレヒコールを行っています。

 

■なぜ解放同盟の人たちは暴力を振るったのか?

 このような動きを知った解放同盟の地元支部長が学校に駆けつけ、教師たちの前に両手を広げて立ちはだかりますが、彼らに無理やり引きずられて、結局集団下校を止めることはできませんでした。八鹿高校の校長、教育委員会、育友会関係者なども止めようとしましたが、教師たちは止まりません。

 

 最終的に、連絡を受けた解放同盟員が下校中の教師たちを囲むと、彼らはスクラムを組みその場に座り込みます。このとき、解放同盟員が教師をごぼう抜きにし、47人を学校に連れ戻し、13人は逃げ出します。この解放同盟員たちの中心にいたのは、ハンスト中の生徒の保護者でした。

 

 教師たちは学校に連れ戻された後、それぞれが解放同盟側の人たち数人ずつに抗議や説得をされました。これがいわゆる「糾弾」です。このとき解放同盟員の中には、教師に自分の生い立ちなども語って説得を試みる人もいましたが、教師は話を聞こうともしません。

そんな態度に我慢できなくなった一部の人が、教師に暴行を加えました。このとき、解放同盟婦人部がすぐに暴行を止めに入りました。

 

 このことを当時の赤旗新聞は、「血ぬられた高校体育館」といった見出しを立てて扇情的に取り上げ、「水をかけられて、ずぶぬれになった男女の教師を無理やり裸にした」「バスケットボールのゴールの鉄柱にチューブをまき教師たちを逆さづりにした」などと報じました。これらはいずれもデマであり、いまだにそれに対する訂正記事すら出ていません。

 

 

 その他にも、共産党は赤旗記者を八鹿高校に常駐させたり、予め病院の手配をしたりしており、トラブルが起こることを想定していました。このような事前準備があった上で、教師たちは生徒と保護者を振り切り、彼らの前を隊列を組み集団下校をするという挑発を行いました。

 

 事件の後、共産党はこの八鹿高校事件を使い、「解放同盟 = 暴行集団」というキャンペーンを張っていきます。また、「部落地名総監」が販売される際には、八鹿高校事件が部落出身者の暴力性を語る事例として引き合いに出され、「だから部落出身者の採用には慎重になったほうが良い」という風に、差別を合理化するのに利用されました。

 

 以上が、事件の顛末です。確かに、一部の人による教師への暴行は許されるべきでは無いと思いますが、予めトラブルが発生すると予想し準備をしておき、差別の被害者である生徒やその保護者たちを挑発し、暴行が生じれば鬼の首をとったかのように「あいつらは暴行集団だ!」とレッテルを貼るのはおかしいのではないでしょうか。

 そもそも一連の事件の原因をつくったのは、差別を行った教師側です。この差別者側を擁護し、差別の被害者に対して「暴行集団だ!」と未だに言い続けることは筋違いだと思います。

(プープーテレビのファン)

【参考資料】

『「同和利権の真相」の深層』解放出版社, 2003

 

(※)http://archive.is/3dO62 Wikipedia 「八鹿高校事件」魚拓 2016/12/17